昭和52年12月31日 除夜祭              入力者=中村良一



一年間に、おかげを頂いてまいりました事を、お礼をもうさせて貰う。不行き届きであったところはお詫びをさせて貰う。まあ、それが、まあ、いわば、今日のお祭りでございますが、本当に一年間を振り返ってみて、本当におかげを頂いてまいりました。それこそ、金光様のお言葉ではないですけれども、願い以上のおかげを頂いたというような感じでございます。えー、その、私、始め、ここにご縁を頂いておる皆さんが、おかげを頂いてまいりました。その一番、お礼の焦点。大なるものは何かと、私は今日、御祈念中に思わせて頂いておりました。本当に、様々な、もう人間の幸せに繋がることのための願い。えー、不健康な人は健康のおかげを。えー、人間関係で悩んでおる人は、あー、人間関係の上にも、または、経済問題などで難儀をしておる人は、万事万端にご都合お繰り合わせを頂いて、今日を、一年を締めくくらせていただく。えー、そういうおかげを頂いてまいりましたが、合楽の皆さんの場合、何が一番お礼の焦点にならなけばならないだろうかと思わせて頂きましたら、んー、今はあんな、少ないですけれども、藁つとで包んだ納豆を頂きました。ね。あれは、作ったことは無いですけれども、藁の中に、いー、あの、煮た豆を入れて、そして、それを一時、やはり腐敗状態にするわけですね。その腐敗状態になって行くうちに、あの粘りが出ます。いわば、ねまっていくわけですね。ねまって、あの粘りが出たり、あの納豆独特の、何とも言えん香りが出てくるわけです。そういう、あのお知らせを頂きましてね。ははあ、合楽の方たちの場合、取りつかねて、一番、お礼を申し上げなければならないことは、ね。一年間、皆さんが、それぞれの、猛々しそうに、信心のお育てを頂いたという事。もう、信心は、これに極まったと、いうならば、分かることだけは分かったという事。教祖の事を分かるようになり、あれもおかげであった、これもおかげであったと仰せられるが、あれもあかげであった、これもおかげであったと分かるようになれば、本当の信者じゃと。それが、本当の信者ではないにしましても、おかげであることは分かっておるけれども、それをおかげと実感しきらないと言うのが、今の合楽のご信者さんの、大体、姿じゃないかと、ね。
最近は、泉尾の先生の、いうならば、お言葉をお借りして、いわゆる、心眼有難うございますという言葉を、盛んに、私が使います。どういう難儀な問題を持ってまいりましても、それが、貴方を研いて下さろうとする、より力を下さろうとする、よりおかげを下さろうとする神様のお働きである。いうならば、神愛である。それが、神様が貴方にかけられる願いの現われなんだ。だから、その事を、御神願有難うございますと、お礼を申し上げるほかにはないですねと言えば、皆さんが通じる、分かる。そこまで、お育てを頂いておるという事でございます。ですから、皆さんがね、いや、私はまあだ、これをおかげとは思い切らんと、えへっ、言う人があるならば、もう、今晩中に、どうでもおかげである、一つ訳を分かってもらわなきゃいけん。でないと、来年に入って行かれん。来年の、言うなら、願いの信心に入っていかれん。ね。合楽のご信奉者が、みんな、ここのところまでは分かってくる。ね。そりゃ、痛いこと痒いこと、色々ありますけれども、これも、神様のおかげだと。お心の現れだと。どういうお心の現われかというと、氏子かわゆいというご一念の願いの現れである。して見ると、その事はおかげなんだと。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、一人前、本当の信者だとこう仰せられるが、ね。これが、だから、すっきりと自分のものになったときが本当の信者じゃという事。ね。一事が万事にお礼を申し上げられる。ね。心が腐るようの事がある。ね。心が真っ黒うなるようなことがある。いらいらも、もやもやも、中には入っておるでしょう。痛い、痒いも入っておるでしょう。けれども、その心が真っ暗になるようなことがある事で、おかげで朝参りが出来ます。日参が出来ます、修行が出来ますという事です。ね。言うなら、納豆が、いよいよ粘っていきよる時なんです。ね。腐っても、もう腐り果ててしまうのではなくて、その腐ったことが、一つの香りともなり、それが、何とも言えん味わいのものになっていっておる、その過程である。合楽の方達の場合は、そういうご信心を、銘々が身に付けてきて、それを確かなものにしていこうとする精進、言うなら、前向きの姿勢に、段々なってきておられるという事が、合楽教会として、私、教会長として、お礼を申し上げねばならん事はそれなんです。一人一人の上に、ああいうおかげも頂いた。あん時のは、こういうおかげも頂いてと、取り上げての御礼のという事もなのですけれども、ね。そういう、難儀なら難儀と思っておったようなことの中から、言うなら、納豆が出来上がっていっておるという事が、お礼の焦点にならなければならない。そんなことを頂いてから、改めてまた、合楽教会、全信奉者の方達が、そのような線に沿うて信心を進めさせて頂いておる。稽古をさせて頂いておるという事を、神様にお礼を申させて頂いたのでございます。どうでしょうか、皆さん。だから、皆さんも、やっぱそれを、お礼を申し上げないとならんと同時に、それが本当に、本当に、スッキリとするもの。だから、このスッキリとするものという事は、もう神様を確信して、いわゆる、信じて疑わない。体験に体験を積ませていただいて、自分のものになっていくから、それがおかげであると分らせて頂く。ね。だから、そこんところを、いわば、いよいよ極めていかなければならない。それを、どういう事かというと、お徳だと思います。そこに、例えば、普通の人が、真っ黒になるような難儀、ね。心が暗くなるような難儀を、そこに見ましてもです。それを難儀と感じないです。御神願有難うございますと言えれる、いうなら、信心がです、いよいよ確かなものに育って行かなきゃならない。その信心が育っていくという事が有難いのである。
今朝から、久留米の稲垣さんが、毎朝熱心に日参があっております。今朝方から不思議な、あの不思議なというよりも、まあ有難いというか、もう本当に、そのお夢を頂いた。というのは、もう、こういう素晴らしい着物を見たことがないという。親先生が、女の着る振袖の着物を着ておられる。もう、その着物の似合いなさること、似合いなさる事ばさらか。とにかく品がよい、しかもそのお供には、末永先生と正教先生がついておる。その正教先生も、末永先生も、やっぱり、立派な女の着物、いわゆる、女装をしておるという事でしょうね。女の着物を着て、それが、ちいっとばっかり着付けが、親先生のごと、むごう着てない。もう襟元を、もちっとこうしなさらんかと、こっちから言いたいような感じで着ておられる。三人の、そしてから、頭は笠なっとん被ってござるかというと、そうじゃない。頭のほうはみんな丸坊主。あっはは、想像しただけで可笑しいですけれども、その、稲垣さんは、それが可笑しいというのじゃなくて、何と素晴らしい、よう着物がお似合いになることやろか。こんな良い着物があったじゃろかと思うような風であったと、説明しておられます。そして、私共三人が、表、その脇殿から表へ出て行く、その先頭に、久富繁雄っちゃまが、先頭に立って、外へ出ておられるところを頂いた。ね。私は、この事を頂いた時にです、声はもう、来年の信心はもうこれだ、これに決ったと自分で思いました。ね。どういう事だと思うですか。ほら、正教先生やらに、女装させたなら、それこそもう、もうそれこそ、グロテスクな格好になるじゃない、もう本当は。それがもう、似合うこつ、似合うこつばさらかです。こげな着物は見たこつがないというごたる着物を着てござる。もう、親先生の品の良さと言うのは、とても、そら、頭は丸坊主ばってん、そん丸坊主が気の付かんくらいに素晴らしい。ね。私は、それを聞いてから思わせていただいた。いうならば、いわゆる、最近、ね。教団でも言われますところの、生み出す信心という事が言われます。男が生み出すわけには参りません。生み出す力を持っておるのは女性である。ね。言うなら、神様からご覧になるところの、生み出す力を得ておるところの様子を、お知らせ下さったのであろうと、私は思うた。ね。末永先生も生み出す力を、もう頂いておる。ね。同時に、私は、合楽の知であり、情であるという風に頂きました。ね。まあ、あー、知のほうで、まあ、合楽では、ね。正教先生なんかは、ま、知の人だと。合楽の頭脳だと、ね。末永先生は、合楽でいうならば、情の人だ。いうならば、私を芯にして、合楽に知情の信心が足ろうてきた。そして、いよいよ、生み出すことの出来れる、いうならば、段取りが出来てきた。繁雄っちゃまが、先頭であるという事は、久富という事は、いうならば、お徳の世界という事であろう。久しく富み栄えるという事である。繁雄さんの繁という字は、繁盛の繁が書いてあります。ね。いよいよ繁盛に繁盛を重ねて行くことの、言うなら、繁盛に繁盛を重ねていくところの、いよいよ、家繁盛、子孫繁盛のです。いうならば、そういう基というものが、合楽にも、段々、足ろうてきた。繁雄っちゃまを先頭に、そして、私、正教先生、末永先生がです、ね。いわゆる、生み出す力を持って、外へ出て行こうとしておるという様子を頂いて、合楽の信心が、いよいよ、世に問われるときが来るんだな、来たんだなという感じが致します。ね。
来年の九月には、大阪、中近畿に四百からの教会があるところで、えー、私を中心にしての、大講演会が持たれるという事である。とても、合楽の信心というのを、ただ、ちょっとテープで聞いた、テレビで見た、一通り話を聞いた。あちらから出てる本を読んだだけでは分からないと言うので、繁々と、この合楽にも通うてみえて、そういう企画が立てられると同時に、こちらに実際に、信心の実習に入ってくるというお届けが、昨日、若先生宛あったそうです。来月の、十六、十七、十八て。十七、十八、十九か、三日間、こちらに泊めていただいて信心の実習を頂きたい。中には、月次祭を頂かせていただいての信心実習をお許し頂きたいという。先月からみえた時にも、そう言っておられました。ですからもう、ただ、話を聞くとかね、合楽の様子を見るとかといったようなものじゃなくて、本当に、例えば、接してみなければ、入っていって見なければ分からないものを求めておるという信心姿勢の、いわば、あー、素晴らしさに、本当に敬服いたしておる次第でございます。あそこの先生の話を、ちょっと聞いてみようというもんじゃない。先生が話すからにはです、言うなら、話の、ま一つ向こうのほうに、言うなら、言外の言というようなものがあって、合楽でのゴヒレイはあっておるんだと。そのゴヒレイに触れるためには、ただ、話を聞いたぐらいのものでは分からんという熱意を示しておられる。これなんかは、まさしく、外へ出て、いわゆる、中に入って広めると神様は仰せられたが、ね。教団の中に入っていって、広めていけれる、そういう段階。しかも、生み出す力を持っておる者でなからなければ、それも、知も情も足ろうたというような感じでございます。ね。その中に、皆さんがある。そして、そのなかで、ただ、こう、何とはなしにうごめいておるというのではなくて、言うなら、活発な働きを、一人一人がなさらなければならないという時なのです。ね。その信心の焦点が、ほんなら、どこにあるかというとです。心眼有難うございますと言えれる信心が、ね。段々、進められ、段々、おかげを頂いてきたという事になる。
今日、若先生がお届けを致しておりましたが、明日から、ここの青年会で、えー、ご本部、年頭参拝を致します。それで、今度の年頭参拝のときに、本部に行って、この事を本部に、えー、交渉をしてきたいといっております。というのは、末永先生があちらで、七ヶ月布教させて頂いておるうちに、あちらで、まあ、いうならば、あちらの現地の方達のお弟子さんが出来ておる。日本人の方も、三人おります。是非日本で、日本語も覚えたい、金光教の研究もしたい。そして、母国に帰って、ブラジルの中に、金光大神のお取次ぎの道を広めたいというような大きな願いを持っておる人達がありますのをです。ね。合楽教会というとでは、いうならば、お国とお国との事でございますから、ね。教団が、それを招聘するというような形で、何とか話を進めていけないだろうかという相談をしてきたいというお届けを致しております。ね。なぜならば別途で素晴らしいことでしょうが。ね。本当に、先生が言っておるように、ね。人が助かるという事は、もう、合楽理念を持ってするほかはない。言葉が分かる分からんじゃない。問題は、助かるという事に繋がるのが合楽理念だと。だから、いよいよその合楽理念をマスターし、合楽理念を行の上に頂いて、ね。お互いがです。ね。どのような難儀な問題の中にあっても、それを難儀とせずに、神愛と頂けれるだけの信心を頂いて、そこから生み出していくところの働きに触れて行くおかげを頂きたい。
今日、ちょうど、午後の、夕方、ここにちょうど出てまいりましたら、日田の伊藤君が東京から帰ってきてお礼に出てきておりました。ここで、しばらく修行を致しまして、えー、大学院まで出た、言うなら、インテリです。それで、合楽の信心を、色々、あの分からせていただいて、これは、本当は自分も御道の教師になったが一番良いような気がするんだけれども、まあだ、その、色々な雑念と申しましょうかね、色々な迷いが、まあだ、迷いに迷うておる最中である。こちらへ帰らせていただく前に、先生、こういうようなお夢を頂きましたとこう言う。ね。お夢の中に、大きな虎が出てきた。その虎が、もう綺麗な女の方の、髪をこうすき流してやっておるところを頂いた。虎がね、お夢ですから。虎が、綺麗な女性の方の髪を、解き流しておる。ほら、虎が、あの髪を結いきるやろかと思うておったら、その虎が、今度は自分のほうへやってきて、そして自分にこうやって抱きついて、もう、どんなに振りほどこうとしても、離れないというお夢であったと言うのです。もう、いよいよね、例えば、一日早う御道の教師になりゃ、一日早う、言うなら、人が助かることになる。一日早う布教に出りゃ、一日早う世の中が明るくなることになる。ね。そういう風に、神様からね、いうならば、白羽の矢を立てられても、しがみ付かれて離されんというようなところまでいっとるけん、早う、踏切をつけなければいけないよと言うて、今日は申しましたことでした。
今朝からのご理解に、神が打ち向かう倍力の得を授けると仰せられる御理解を頂いた。神は、打ち向こう倍力の得を授ける。みんなが日参をしておる、十年参っておりますと、日参を致しておりますと、ね。言うなら、神様に向こうてきたようですけれども、御徳を受けてないとすると、あら、教祖様は、しらごとを言ってあるということになる。嘘を言ってござるという事になる。だから、私は、教祖様は、嘘は仰ってないと思う。ね。嘘は仰らないと思う。それを実証していってこそ、信奉者の、これは努めであると私は思う。ね。そこでです、ね。神様へ打ち向かうという、その打ち向い方が、倍力の徳の受けられるような打ち向い方でなからなければならないという事である。参りよります、拝んどりますという事ではない。ね。それにはね、言うなら、いよいよ信心を、頂かせていただこうという、いうならば、構えが要るという、今日の御理解でした。構え無しにはいただかれん。ね。剣道なら剣道でもです、ね。構えて叩かれるぶんな、さほどに痛さを感じない。けれども、うかつにしておる時に、もし叩かれるならもう、それこそ、脳天を打ちのめされるような事になってくる。ね。問題は、構えが大事。沢山な人が、合楽にこうやってお参りをして、おかげを頂いて、毎朝、朝晩の御理解を頂いて、なるほど、世の中には、神様の神愛だけしかないんだなあ。いうならば、一切が御神願だなあと言う様な事は、皆さんが、大体のおいて分かってきた。これが、合楽の信者さんの、いうならば、おかげの状態である。それならそれを、おかげをおかげとして、本当に心からお礼の言えれる信心を頂く。そこからが信心なんです。信心しよるとに、こういう事が起こったではなくてです。信心しておるおかげで、こういうおかげが受けられるという信心。降ることも有難いなら、照ることも有難いと、心からお礼の出る。これは、信心の稽古すりゃ、誰だって頂く事が出来るのである。おかげを頂こうとするから、頂こう、頂こうと思うから、信心が分からんのです。理屈の上じゃ分かっておるけれども、叩かれりゃ、やっぱ痛い。ね。有難いとお礼は言葉になって出てこないという様な事では、いつまでたっても、御徳にはならんのだ。ね。神様へ打ち向かう、いうならば、姿勢が、ね。信心を頂くという姿勢がね、構えが出来なければはならないという御理解でした。今度、ご本部の報徳祭に出ておりましたパンフレットを、沢山、先日、佐田先生が持ってきてくださってある。だから、あれを、もう一遍皆さんが頂いて読んでみなさい。ね。あの中には、二つの短い例話が出ておる。ある教会の先生の事が書いてある。もう、金光教の信心の、信心を稽古させて貰う根本はもう、あれなんだと。ね。一切を有難くいただいていくとか。ね。人には頼らん、もうものには頼らん。いよいよ、神様にしか頼るものはないと、腹が決まるところから、本当な信心がいただけておるという事を書いてありますけん、出ておりますが、どうぞ、帰りがけ、もう一遍、もう読みなさったろうばってん、もう一遍読んで、そして、繰り返し、繰り返し読んで、こういう信心が、腹に入らなければ、本当の金光教の信心は分かったとは言えない。あの生き方になれば、言うなら、お徳のいただける構えというものは、これなんだ、ね。信心をいただき、御徳を受ける構えというものが要るんです。ね。
今朝から、北野の、おー、関さんがお届けをされます。パーマ屋さんですからもう、毎日、えーその、寝らんような、その、毎晩その、忙しい事なんですね。パーマ屋さんですから、お正月前で。昨日はおかげで、まあ、少し早かった。今夜は早うから休ましてもらおう。ほんなら御祈念、御祈念。もう疲れきってあるというような、娘さんが敏子さんち言います。それから、「敏子さん」ち。お母さんが先日聞いた、とてもありがたか話ばして聞かせるというけん、そこへ座らんのち言うて、お神様の前で座ってから、何時もはその、お母さんのいう事は、あんまり聞かんけれどもね、「善導寺のね、久富正樹先生の話ばする」ち言うたげなら、座ったち。はっはは、やっぱ、人気があるわけですよね。「どげな話の」ち。いや、私はね、直接聞いたわけではないけれども、善導寺の原さんから聞いた話なんだけれども、「正樹先生はもう、いつ、どげん遅かっても、どげん、ほんなら、酔うて帰ってきても、これこれと心に定めた大祓信行だけは、もう、必ずしなさるげなよ」と言うて、その原さんから聞いた話を、こまごまと話した。それから、きつかとか、眠むかと言いよったつがね、そんなら、今夜から始めようと言うて、もう、夕べは、娘と二人で大祓信行をさしていただいて、もう本当に有難かったというお届けをされました。ね。私は、構えという事は、そういう事だと思うんです。ね。もう、それこそ、構えというのはもう、構えです。ね。どっからでも打ち込んで来いという構えなんです。それを受け損なうても痛くないです。ね。例えば、ね、お徳は、神様に向こうて行きゃ、誰でも受けられると、たった、それだけ簡単に、ね。神に打ち向かえば、向かう倍力の徳を授けると仰る。ただほんなら、参りよります、拝みよります、お話を頂きよりますという事だけではない。お徳というのは、久留米の初代が言われるように、神様のご信用だと言われる。ね。その神様のご信用がです、「いや、あん男は、やるときはやるばってん、もう、いっちょ、いかんごつなったら、バタバタ崩れてしまう。」もう、これで、信用が付くはずがないでしょう。「もう、こん男だけは、どげん酔っ払って帰って来たっちゃ、どげん忙しゅうしてもう、あー、もう、それこそ、目が開かんごとあったっちゃ、やはり、御神前に出て、大祓信行だけは、もう必ず、この男するという時にです。私はもう、神様の、この男だけは、いうなら、大祓信行ことに限ってだけは、間違いがない」という事になるのじゃないでしょうか。ね。どんなに有難い信心しとっても、出来たり、出来なかったりではね。んー、「良か信心するばってん惜しか、あん男は、言いよる次にはもう、直ぐ崩れるから」これで、ご信用が付くはずはない、御徳が付くはずはないと。ね。
皆さん、そういうような、自分の信心の中に、これ一言だけぐらいは、神様から、言うなら、絶対と見て頂けれるようなものがです。出来なければ嘘だと。いやいや、御徳が受けられないて、それでは。ね。気張るときには気張る。さあ、だから、おかげは頂く。おかげを頂く事だけは、みんなが体得して行く。もう、こげん時には、こげん信心すりゃ良い、と言うような行きかたで、信心する人がありますけれども、それは、一生、信心を続けたからと言うて、ね。そういう時に神様を動かす。いうなら、ごうぐるようにして頂くおかげですから、それはお徳にはならん。ね。いうならば、先ず、構えを作ることが大事だと。今朝のご理解には、吉備舞なら吉備舞を習う前には、舞の構えを先に教える。楽器でいうならば、三味線なら三味線を習うとすると、先ず、竹に雀から習う、ね。竹に雀がようやく止まるようになったからと言うて、調子が分かるわけじゃない。ね。五つ上がり、十、段々上がっていきよるうちにです、ね。三味線の本当の音色というものが、耳に聞こえてくるようになる。ね。聞こえてくるようになると、言うなら、調子が、いうならば、さあ、これは、二上がり、これは三下がり、これは本調子だというふうにです。きしっとあわせていくことが出来る。だから、その三味線の稽古をしようという気にならなければ駄目だと。竹に雀が止まるようになったけん、もうそれで良いというのじゃない。ね。いうならば、ここで、いわゆる、天地のリズムである。火と光りの音律である。その音律がです、聞こえてくるという事。日々、いうならば、調子の合った信心生活。あら、これは可笑しいぞ、調子が狂っておるぞと、直ぐ分かるようになる。そこで、前には進まんで、足踏み状態でも良いから、調子を合わせることに、先ず努める、ね。そして、いうならば、調子に乗った、リズムに乗った信心生活が出来るといったような手立てを覚えていくという事と同時に、只今申しますように、これだけはという信心。ね。
阿倍野の先生が、十八のときに話を聞かれた、落語を聞かれた。そのなかで、ね。もう本当に、もう一切を、この話を境に、ね。もう、この生き方で行こうと腹を決められた。もちろん、熱心に信心もなされておられたから、そういう腹が、言うなら、お説教からだけじゃない、ね。テレビを見よっても、ラジオを聴きよっても、いわゆる、子供の泣き声からでも、一つの悟りというものが開けれるんだと言われておりますように、ね。ある、ままかかさんの話を聞かれた。憎うて、憎うて子供がたまらん、そこで、魚を買うても、ほんな頭のとこだけをすえる。ところが子供が、お母さんが、人の王になれよと、いや、頭になれよと、かしらになれよと言うて、頭だけを付けてくださると言うて喜ぶ。そこで、あるときには、尻っぽのとこだけをつけた。そしたら、大阪では、尻っぽの所を尾という。ね。人の上に立つ王ともなれよと言うて、お母さんが、尻っぽを付けてくれるち言う。そらお母さんが、何を付けたっちゃ有難い、有難いでいくもんじゃき、もやもやしてから、今度は、真ん中つけようと言うて、今度は真ん中つけた。はあ、自分ぐらいなものに、こういう身ばっかりのところをつけてもろうて、どうも有難うございますと言うて、もう、とにかく、どこでもここでも、これは、笑い話ですよ、落語ですから。ところが先生は、それをです。私の生涯は、これで行くと決められたちいうんです。私は、先月、あちらのご本を読ませていただいて驚いた。あちらの先代の式年祭があった。ね。ところが、その日は、言うなら、私どんでいうなら、にくじのごとしてというとこじゃん。にくじのごと土砂降りじゃった。ところが先生が、それをどう言うてござるかというと、「今日は土砂降りのおかげで、足も汚さずに、ね。お広前からあちらの遥拝が出来るという事は、何と皆さん、有難い事ではないですか」ち言わしゃったげな。ね。それを、本当におかげと思い込んでござる。ある、毎月、月参りがある、そん時に、どうした事か知らんけれども、顔がこう、口やら腫れてから、こう、おー、その、外に出られんごと腫れなさった。そこで、若先生が代理でお参りになった。ね。そして、皆さん、ご本部から帰ってきたときにです。私は今度、ご本部の参拝が出来なかったけれども、おかげを頂いて、人の真、人の親切と言うものが、こんなにも有難いもんだろうかと、介抱してくれる女中さんの事から、それを思うて、有難い、有難いで休ませていただいとったち言わっしゃったげな。こらもう、私どんが、まあ、御無礼ができてから、お参りが出来なかった。私の信心が狂うとるけん、雨が降ったという風に、もう、お詫びで、自分の心をさいなむ様なことでしょうね、実際、出来てないからそうなんです。けども、そこんところがね、先生はまあ、とにかく、頭だけをつけても、尻尾だけをつけても、これは、確かに、阿倍野の先生という方は、有難い、勿体ないの権化のようなお方だという事を、私は、改めて今度感じたんです。私の信心が行きとどかじゃったもんだから、今日の御霊様の前には墓前祭もできじゃった。本当皆さん、すみませんという風に言うてはないわけです。もう、心から、有難いと思おうてあるわけです。おかげと思いこんじゃる訳です。ね。十八のときに腹を決めた。それが、ほんなら、今日、八十二歳になられるそうですが、十八歳から、何十年間という間を、ね。それを貫いて通してこられたというところに、阿倍野のゴヒレイがあるのじゃないでしょうか。ね。だから知っとる。時々、守りよるじゃいかんという事です。ね。もう、本当に、成り行きを尊ぶ、成り行きを大事にする。全てのことに御の字を付けるというが、それを知っとるだけでは、それを知っとると言うのが、今の合楽のご信者さんです。ね。そういう道理を、ほんなごつ、知ってるわけ。けれども、実際、自分の前に起きてくると、やっぱりそれを、ね。えー、いわば、本当に御の字をつけて行ってない。腹を立てんごと言いよるけれども、いうならば、えー、立てたり、立てなかったりというような事である。それは、立てたり、立てなかったりでもね、やっぱ、あーその、ええ事はよかですね。けれどもね、神様のご信用にはならんて。いやもう、これがもう、今日は腹かくじゃろと思うて、じっと見ござったら、腹かかじゃった。さすがに、この男は、この女はと、そこから神様のご信用が生まれてくるんです。ね。神様へ打ち向かうというのは、自分が頂いておる、その教えをね。もう、それこそ、金鉄の硬さを持ってです。それを貫いていただきぬくという事だと思うんです。ね。せっかく、皆さんがです、今日私が神様へお礼を申し上げたようにです、納豆のおかげだけは頂いておるのであるから、ね。これが本当のです、ね。それこそ、心眼有難うございますと言えれるところまで、お互いの信心を進めていって、来年は、いよいよ、生み出す信心になるでしょう。ね。願いは、合楽建設の、言うなら、願いが立てられます。ね。それに、私どもがです、ね。願いに願い抜かせていただいて、ね。生み出すことの出来れるほどしのおかげ。しかも、限りなく生み出していけれるおかげ。ね。御用いただこうと思うばってん、いっちょん生まれんならば出来ますまいが。ね。自分の財産減らしたんではいかんでしょうが。ね。それこそ、次から次と生み出されてくるものがです、お役に立たせてもらうという事になった時にです。ね。来年の信心は、そういう生み出す信心。同時に、合楽建設の願いの信心に立って、いよいよ、信心を確固、不同のものにして行くところのお年柄だという風に思うんです。今年、お礼を申し上げたのは、そいう基盤が出来たという事が、御礼を申させていただきました。どうぞ。